非実在登場人物の現世におけるスタンス
私は、「はやみ@はやみどっとねっと」(ローマ字半角に直して下さい)という公式アカウントのメールアドレスの他に、「きり@はやみどっとねっと」「まりか@はやみどっとねっと」というメールアカウントを持っていて、要するに、季里と真理香なんですが、そちらのアドレスに来たメールは、季里なら季里、真理香なら真理香に「なり切って」(厳密には違うのですが、説明が難しすぎて、書いている暇がありません)お返事や会話をすることがあります。
私のメイン読者層(だと思います)の人は、この、認識論的なゲームにつきあって下さって、真理香や季里との会話を愉しんでいるのですが、この前、見なれないアドレスの人から、真理香にメールが来て、聴いてみると小学生で、「Mr.サイレント」の読者だ、ということでした。
私のサイトは、任天堂のDS で見つけたそうでして、それは大変ありがたいことですので、真理香に「なりきって」(「憑依されて」、のほうが近いかな)、楽しんでもらえるようお話を続けていたのですが、間もなく、特にごあいさつもなく、メールがとぎれてしまいました。
読者は、飽きるのも早いですから、気にはしていなかったんですが、ある日、気がついて、たとえばその子の親御さんがペアレンタルロックをかけてしまったりしたのかもしれないなあ、と。
たしかに、自分の娘が、「女の子になりすました自称作家のおっさん」と、ネットでやりとりしていたら、それはかなり、危険なものを感じるでしょうね。この傾向は、ここ10年、どんどん増えてきたように思います。
まあ、どうしようもないことではあるんですが、私は仕事上、若い女の子に、トレンドとか、学校のルールとか、聴いてみたいことがたくさんあるので、なんとか、「非実在青少年となりすましの違い」、を分かってもらえないかなあ……と、思わないでもありません。
認識論的なゲーム、と書きましたが、これは、簡単に言いますと、任意の読者・Pさんにとって、私も水淵季里も、たとえばネットの上では、なんの違いもない……、というようなことです。単純に、私がネットに入った1990年から今に到るまで、ネット上でしか逢ったことのない親友がいますが、どれだけ親しくしていても、逢う気が特にないんですね。1回ぐらいは逢っていても、それが10年前ともなると、「実在」のPさんと、私の中でのPさんは、相当変わってきているでしょうから、どっちがPさんだ、ということは、厳密には分からないんじゃないか、ということなんです。
私が心酔している哲学者の大森荘蔵さんは、こういうようなことを、生涯をかけて研究された方で、大森さんが説明したら、もっと分かりやすくなるのでしょう。私も、不肖の押しかけ弟子として、この問題は、ずっと追及しよう、と思っています。
ここをもっと追及すると、ブログをエッセイ集として、出そう……なんて甘い夢もありますが、いまのところ、それは夢だから甘いのであって――何かいま、思いついたんですが、それはまた、別の話。
私のメイン読者層(だと思います)の人は、この、認識論的なゲームにつきあって下さって、真理香や季里との会話を愉しんでいるのですが、この前、見なれないアドレスの人から、真理香にメールが来て、聴いてみると小学生で、「Mr.サイレント」の読者だ、ということでした。
私のサイトは、任天堂のDS で見つけたそうでして、それは大変ありがたいことですので、真理香に「なりきって」(「憑依されて」、のほうが近いかな)、楽しんでもらえるようお話を続けていたのですが、間もなく、特にごあいさつもなく、メールがとぎれてしまいました。
読者は、飽きるのも早いですから、気にはしていなかったんですが、ある日、気がついて、たとえばその子の親御さんがペアレンタルロックをかけてしまったりしたのかもしれないなあ、と。
たしかに、自分の娘が、「女の子になりすました自称作家のおっさん」と、ネットでやりとりしていたら、それはかなり、危険なものを感じるでしょうね。この傾向は、ここ10年、どんどん増えてきたように思います。
まあ、どうしようもないことではあるんですが、私は仕事上、若い女の子に、トレンドとか、学校のルールとか、聴いてみたいことがたくさんあるので、なんとか、「非実在青少年となりすましの違い」、を分かってもらえないかなあ……と、思わないでもありません。
認識論的なゲーム、と書きましたが、これは、簡単に言いますと、任意の読者・Pさんにとって、私も水淵季里も、たとえばネットの上では、なんの違いもない……、というようなことです。単純に、私がネットに入った1990年から今に到るまで、ネット上でしか逢ったことのない親友がいますが、どれだけ親しくしていても、逢う気が特にないんですね。1回ぐらいは逢っていても、それが10年前ともなると、「実在」のPさんと、私の中でのPさんは、相当変わってきているでしょうから、どっちがPさんだ、ということは、厳密には分からないんじゃないか、ということなんです。
私が心酔している哲学者の大森荘蔵さんは、こういうようなことを、生涯をかけて研究された方で、大森さんが説明したら、もっと分かりやすくなるのでしょう。私も、不肖の押しかけ弟子として、この問題は、ずっと追及しよう、と思っています。
ここをもっと追及すると、ブログをエッセイ集として、出そう……なんて甘い夢もありますが、いまのところ、それは夢だから甘いのであって――何かいま、思いついたんですが、それはまた、別の話。