うらそえ日記

奇談小説家・早見慎司(早見裕司)の公式ブログです。
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水淵季里新シリーズ

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    季里のブログにも書いてありますが、本人とも相談の結果、水淵季里のシリーズは、年齢を進めて続けることを決心しました。
     きっかけは、ブログ読者の方のおことばによるものですが、いつまでも、新学期から始めても(もう、3、4回になりますか……)、歴史の上塗りに過ぎない、というのが、理由のひとつです。
     それと、季里本人が、成長することを、臨んでいるからです。

     まだ、書けるかどうかも分かりませんし、出版のめども立っていません。
     ただひとつ言えるのは、たとえ60になっても、季里は、季里だ、ということです。
     私の軸がぶれないよう、見張っていて下さい。

     もうひとつは、再度、長篇に取り組もう、ということです。
     現在、短篇連作は、非常に厳しい状態にあります。「ビブリア」シリーズなど、成功する(編集会議を通る、という意味も含めて)のは、ごくごく一部です。
     久々に、長篇が書ける体力を確かめてみなければ、今後の小説家生活には、はっきり言って支障をきたします。
     そんなわけで、季里を「大人に」(体の上では、です)するべく、意識の改革中です。
     その前に、〆切が3つぐらいあって、どれもかなり厄介なのですが、まあ、将来の楽しみに、取っておいて下さい。

     急に気温が下がったので、風邪気味です。皆さまもお気をつけて。

     
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    タイプライター

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      最近、きがついたのがこれ。いやーこれ、「未来世紀ブラジル」にそっくりじゃありませんか。感嘆。
       まあ、私の場合、東プレのRealforceのいちばん軽いやつを長年愛用していて、極端に軽いキーボードなので、他に乗り換えるわけにもいかないんですが、どうせだったら、まだcRTモニタを使っている人がいるはずなので、がしゃがしゃやってもらうと、楽しいですねえ。
      まあ、最近では、圧力0のキーボードが出ていて、いずれ、キーボードがいらない時代が来る、と思うんですが。
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      吸血姫美夕:「どうかな」と「私は――」

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        テレビ「美夕」では、「美夕」の意志が弱い、と言われたことがあります。仕事以外で顔を合わせたとき、平野監督は、「俺は今までで一番、強い美夕を描いた」、とおっしゃいました。この齟齬について、ひとつ、当初から思っていることを、書いておきます。
         あくまで憶測ですが、美夕の「意志が弱い」、というのは、たびたび呟く「どうかな」「そうかな」、という科白回し、あるいは「私は――」と、最後まで言い切らないことなどが、挙げられるような気がします。
         もし仮に、美夕が「どうかな」、と言うのを、迷っている、答を決められずにいる、と解釈されるのだったら、それは大変失礼ですが、女の子とつきあったことがない人だ、と思います。女の子が、買い物に出かけて、二枚のTシャツ(カットソーでも何でもいいんですが)を見せて、「ねえ、どっちがいいと思う?」と訊いたとき、「どっちも似合うよ」、という答を、女子は期待していません。あるいは、「こっちがいいんじゃないかな」と言ったとして、「そうかなあ」あるいは「そうだよね」と、女子の心の中では、結論はすでに決まっているのです。
         なら、どう答えるべきか? 答は現実世界にひしめいています。
         そんなリア充の話をされても、むかつくだけだ――という人もいらっしゃいますよね、たぶん。そういう方は、『美夕昔語り』の、田舎芝居のシーンをご覧下さい。
        「さあ、どうじゃ」
        「さあ、それは……」
        「どうじゃどうじゃ」
        「それは……」
         これは、古浄瑠璃から抜粋したものですが、ここでも、美夕演じる葛の葉の答は、すでに決まっていて、それにゆさぶりをかける、というのが故実のパターンなのです。
         テレビ『吸血姫美夕』で、美夕が、他の人間、あるいはラヴァや死無の意見を得て何かを検討したシーンは、私の思い出せる限り、ほとんどありません。ディスカッションをするのだったら、ラヴァはもっと出番が増えたことでしょう。
         「美夕の亡霊」で、私が失敗したときのように、美夕は揺るがないのです。ただ、話の相手をしないと失礼なので、「そうかな」、と言っているのです。

         「私は――」は、神魔が燃やされるときや、主に台詞をかぶせたい場面で登場します。
         神魔を演じた方々は、これには面くらった、とある方が述懐していらっしゃいましたが、その答は、「自分で考えて下さい」なのです。
         つまり、それを考えることが役作りだ、と私は考えていて、だからこその豪華声優陣になったのだ、と思います(私は配役には一切、口を出していませんが)。答はそれぞれの方で考えていただければいいのです。考えることが、重要なんです。私も考えました。私の脚本は、ト書きが少ないのですが、それはスタッフに考えて欲しかったからです。
         その気になれば、書けるんです。例えば――。

         「私は――」の、もうひとつの効能は、テンポを速めることにあります。シリーズ当初から、キャラクター主義ではなく(なぜならキャラクターは、監督の中に、すでにあるわけですから)、事件主義で進めていったのですが、トロい、キャラクターを回すだけのホンは書くまい、という気持ちでした。
         テレビ「美夕」は、テンポにはかなり気を使っていて、代表が「美夕昔語り」の前半の展開ですが、小中千昭さんが「鱗肢の蠱惑」で独自のテンポを作ってみせたのに対して、私は私のテンポを、とちょっとだけ考えたものです。
         「美夕昔語り」では、インテグラル版とテレビ版で、大きな違いがひとつあって、Aパートのラストで、鬼術師(大塚明夫さん)が「月は東に日は西に!」と叫んだあと、拍子木が一拍、入るのですが、テレビ版では、そこが切ってあります。この辺が、テンポの問題になってきます。なので、DVDを(あるいはLDを……LDではテレビ版が見られませんが)お勧めしている次第なのです。私の懐具合とは、関係ありません。DVDが売れても、私には一文も入ってきませんから(笑)。

        「美夕」については、思い出したことがあったら、また書きますが、気が向かれたら、質問していただければ、お答えできる範囲では、お答えします。
         スタッフは、イメージ商売なので、他の方のイメージに関わることは、言えないんですがね。例えば、なぜ『セピアの肖像』が第3話になったか、とか……。

         
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