TV「吸血姫美夕」大昔語り・8
(映像の「イメージ」)
『早見』そうです、ああいう奴は論理的なモンではないんですね。鈴木清順がツィゴイネルワイゼンの時小林信彦に「今回は辻褄合ってますね」、と言われて、「辻褄を合わせるのは役者の仕事だ」と、言って、小林信彦、ぶっとんじゃったんですけど。
まあ余談ですけど、緒方恵美さんは非常に演技について深く考える方なんで、わからないコトがあると監督に食い下がるんですけど、監督は教えないんです。で、美夕の場合は、特に私の台詞もそうで、ナニ言ってるかわかんないでしょ?
『ううん、私は……』、っつったところで終わっちゃうじゃないですか、そっから先は、全部役者さんが自分で考えなきゃならないんです、と言うか、「考えて下さい」なんです。美夕が、よく『そうかな……』とか『どうかな……』とか言ってますけど、あれも、決定しないんです。これは私の作風なんですけど、それはあの、言うと怒る人は怒りますけど、言っちゃうと、観るヒトの責任です。
つまり、アニメ、まあ映像、TVが特にそうですけど、あまりにもすべてを説明してくれるようになって、受け手が想像を膨らます余地がなくなった、逆に、すべて説明してくれないと、設定まで、ま、はなはだしきは、アニメ雑誌に全部解説を書いてもらって、それを読まないと安心しないっていう。想像力の衰退って、僕らいつも言ってるコトで、それには逆らう気があるんです。だから、美夕を観て何なんだって言ってるヒトは、自分を投影してるんですね。
『TOMCAT』自分の中にノーアイディアだと、或る刺激をこちらから与えているのに、それに対して何もリアクションしない、説明されるのを待っている、だからあなたの中には何もないんだ、って話なんですね。それで、例の美夕の真空であるとか……
『早見』だから、鏡なんです。この美夕はオレの考えてる美夕じゃないって噛み付いてるヒトは、自分の考えを投影して、川に映った自分の姿に吠えている犬のような状態だろうと、私は傲慢にも思ってるんですけど、とにかく考えて欲しいんですね。だから、台詞言い切らないで終わっちゃう時に、役者さんはみんな悩むらしいんですよ、で、自分でお考えになって、こういうコトにしようというので、役者は演技プランがありますからね。
ただそういうふうに、考える余地を残しておくことが一つと、もう一つはできるだけ多義的な解釈ができるようにしようと。えーっと、最初の内は全然書かなかったんですけど、最終話では、或る程度指定してて、これはネタバレにならないから言ってもいいのか、美夕が「私は死ねないの」ていう台詞があるときに、ちゃんと私は括弧書きで「死ぬわけにはいかないというコトと、死ねない定めなのだというコトの両方の意味だ」って、ちゃんと書いといたんですけどね。最終話くらいになってそうなりました。
『TOMCAT』じゃあ、ネタバレにならない範囲だったらいいですね、たとえば最終回に関しては、前半なんかに較べると、絶対一義的な解釈が不可能なようになってますね、なにもかも、さっきの台詞にしろ。
なんかあの、川に行けって言われるの、わかんないじゃないですか。川に行けって言われたら、何故かつげ義春になっていて、向こうの方に御詠歌唄うようなヒトがいてですね、一応解釈はするワケですよ、非常に解釈しやすいような筋道が通ってますからね、上流からは紅い花が流れて来るし、それは紅い花で石井輝男(異能の映画監督。『恐怖畸形人間』など)でつげ義春(カルト的な作風で高名な漫画家)で、って考えてくとですね、それは美夕は14歳で吸血鬼になった少女なんだからそういう意味なんだろうと。
で、その向こうに、五歳くらい、いくつかわかんないけどまあ、御詠歌唄うような幼子がいて、シジュフォス(重なる悪業の罰として,地獄でたえず転がり落ちる大石を山頂へ押し上げる永遠の空しい苦業を課せられた。以上、『世界大百科事典』)をやっとります、と。なんか直線的な時間の向こうになんだか円環的な時間の流れがあってですね、で、それを見ておいでって言った母親って、ナニ考えてるんだろうって考えると、これは解釈できないワケですね、
『早見』それはまあ、時の環ですね。時輪学園ってくらいで。一種の語呂合わせです。CDシネマ(オリジナルドラマCD。「美夕・ドラマスペシャル」とは違う。「CDシネマ」の1巻目)の「瞬きの街」で、山田さんが面白く使ってますけどね。時間の問題。
『TOMCAT』で、おっかぶせるように白い着物がいいか赤い着物がいいかって言われるでしょう、で、赤い着物白い着物っつって、それがなんか、死無がちゃんと解説しますよね、それでまたなんだか判らなくなるじゃないですか、美夕の現状は白い着物なのか赤い着物なのか、どっちでも取れるようになってるじゃないですか。
『早見』脚本家の頭の中には、あるわけですよ。赤か白か、はね。
『TOMCAT』それで、どっちでも取れる、在り方、それと非常に意味ありげな解釈しやすそうな筋道、そこで筋道を用意しながら、必ず曖昧な多義性で解釈をぶっくらけえすようなところがあるワケでしょう。要するに、型通りの解釈はないと謂う風に……。